2015年12月13日「主を誇り生きる」

12月13日 主日礼拝礼拝説教要旨
「神を誇って生きる」山本一牧師
ルカによる福音書1章46−55節


●日本では「謙遜」が美徳とされるので「プライド(誇り)」を前面に出すのを嫌いますが、本当は人を生き生きと生かす大切な物です。しかし現代の社会は「誇り」を持って生きるという事がとても難しいように感じます。不況による突然のリストラ、国や家族を支えた功労者も高齢者となり、肩身の狭い思いをしている。若い世代は幼い頃から、競争社会に飲み込まれて、日本では偏差値教育によって、人と比べて優れているかどうかを計られ、標準以下だと自分が価値のない者のように思ってしまう。そうして多くの青年層の自殺を生んでいる。
●神学者パウル・ティリヒは人が常に恐れている事の一つは「無意味な存在になる事」だと言いました。人間は「用無し、無価値」というレッテルを貼られないようにと人の評価をいつも気にし、人と比べて自分の中に自慢できる事柄を持とうとします。しかし、そのような周りの人と比べて何か自分の才能を誇るような「誇り」はいつかは失われるのです。聖書は決して失われない「誇り」という物が別にある事を教えているのです。
●パウロという人物はもともと熱心なユダヤ教徒で「律法」を誰よりも守るファリサイ派の一員でした。しかし彼は「律法主義」は際限のない競争をうみ、人をうらやんだりさげすむ事しか生み出さないと知り、人は皆自分を誇る事ができない罪人だという事に気づくのです。そして私たちが誇れるとすれば、それは私たちを許し、生かす「主なる神」だけだ「誇るものは主を誇れ」と言ったのです。
●今日の福音書は「マリアの讃歌」です。これはマリアが救い主イエスを身ごもったという事を知らされた時に歌った歌です。ここにも主を誇る者の姿があります。マリアは自分を「身分の低いこの主のはしため」と表現しています。当時女性の地位はとても低く、また彼女は血統の良し悪しで人が 計られる社会の中で決して良い家柄ではなかったようです。この「はしため」という言葉も「奴隷」を意味する言葉です。色んな意味で平均以下であったマリアが神の特別な力によってイエスを宿した。その喜びをこの讃歌は表現しているのです。
●マリアは「自分は幸いだ」と言います。しかし、それはマリアは「自分がすごい」と言っているのではないのです。また今まで身分の低かった私が、逆に高い身分にされた、と「この世の地位の逆転」を喜んでいるのでもないのです。マリアはこの讃美の最初の言葉として「私は主を崇め、主なる神を喜び称えます」といっています。この「崇める」と言う言葉は「メガルノー」という言葉で「大きくする」という意味の言葉です。「私は主を大きくする」つまりそれは「神をこそ誇る」という事なのです。マリアはこの分の低い私に「神が」目をとめて下さった、「神が」偉大なことを私になさった。と言って神を誇っているのです。
この世の評判や見方、差別的な言葉、そんなのはどうでもいい。確かに身分も能力も人と比べると劣っている。しかしそんな私を愛してくださる方がある。その神さまをこそ私は誇りにするんだ。という、マリアのプライドの叫びがここにあるのです。
●「まどみちお」さんの歌「ぞうさん」を思い起こします。
「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね、そうよ かあさんもながいのよ。
ぞうさん ぞうさん だれが すきなの あのね かあさんが すきなのよ」
鼻が異常に長い、周りと違っておかしいと言われても気にしない。私の事を愛し、また私も愛する「母さん」がいるから。
ここに、大切な誇りを自分自身の内に持つ者の強さを見る思いがするのです
自分自身に誇りを見出せないような状況があったとしても良いのです。そんな私をどこまでも愛してくれる神さまが、イエス様がおられるのです。その神をこそ誇り、讃美して歩んで参りましょう。