2015年11月1日 「いつかその日が」

11月1日 主日礼拝説教要旨
「いつかその日が」山本一牧師
ルカによる福音書11章5−13節


●「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」(詩篇95)という言葉は数千年前から雄大に佇むヨセミテの岩を思い起こさせます。神様という存在をそのような岩に例えた詩人は素敵です。そして、ただ「喜ぶ」ではなくて「喜びの叫びをあげる」とあります。どうしたらそのような叫ぶ程の喜びに与れるのでしょう?
この詩は一度破壊された神の神殿が70年後に再建された時に歌われたのです。人生には挫折したり、あきらめそうになる事が多々あります。けれども苦難の中で、それでもなお信じて励んでいく、祈っていく時に、そのような喜びに与れるのだという事を私たちは知るのです。
●今日の福音書には「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる」とあります。この言葉は聖書本文のギリシャ語では継続をあらわす現在形で書かれていて、一度限りではなく「求め、探し、門をたたき続けなさい」という意味が含まれているのです。そして、この「~し続ける」と言うことが大切だというのは、今日の個所の前半部分のお話、友人をもてなすためのパンを借りるお話の「しつように頼めば、起きて・・・与えるだろう」。という言葉にも表されています。ただ、「何かをし続ける」ということはとても難しいことです。なかなか変わらないと思う状況が多いからです。
●竹の種は土に蒔いて、水と肥料をやりつづけて5年目ようやく小さな目(竹の子)が顔を出すそうです。もう無理だと諦めそうになる時をさらに超えて初めて竹の子に出会えるのです。ちなみに花や実は数十年から百数十年に一度しか見れない。その時がいつかは神様だけが知っているのです。  私たち人間は弱い存在です。だからこそ、信仰を持って求め、探し、何かを為し続けることをイエス様は勧められたのです。そうして私たちは苦難の先で「叫ぶほどの喜び」というものに出会うのです。
●ただ、今日の聖書箇所でもう一つ気になる言葉が最後にあります。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
求めるものに、神様は聖霊を与えてくださるとはどういう意味なのでしょうか?「聖霊」というのは、もともと「神さまの息、とか風」という意味の言葉で、目に見えない神様の力を表しています。
●私は苦しかった思春期の時に必死に祈り続けてきました。自分勝手な祈りでしたが、その中できかれた祈りもあれば、祈りが聞かれず「求めても与えられない。イエスさまは嘘つきだ!」と思う事もありました。しかし、私はそうやって祈り続ける中で、本当に神様が何を私に与えたいのかがわかるようになってきたのです。
それが今日の聖書にある、目には見えない神様の力(聖霊)であり、もっと平たく言うと「どんなことがあっても、イエス様がおられるから大丈夫」。そう思える信仰です。それを私は祈り続ける人生の中で、少しずつ育まれてきたように思うのです。
●「神は救いの岩」であると旧約の詩人は歌いました。神は変わらずずっとあり、見守り続ける存在であり、その神様はイエスという存在を世に送り、このイエス様は今目には見えない力「聖霊」となり、私たちのそばにいてくださると聖書は告げているのです。「どんなことがあっても、イエス様がおられるから大丈夫」その喜びと平安こそが、「聖霊」の賜物なのです。
どんなことでも祈って、祈り続けてまいりましょう。そして叫ぶほどの喜びと、聖霊による深い喜びを得てまいりましょう。