10月25日 「私を憐れんでください」 ジョン・ビジテーション先生

マルコによる福音書10:46-52

「わたしを憐れんでください」

ジョン・ビジテーション先生

この聖書の箇所が今週の聖書日課から与えられた時、私は、自分が牧師として聖職授任(オーディネーション)を受けるための準備もしていて、それは教区での面接を受ける前に仕上げる必要がある一連の書類、手紙Aから手紙Mといったものも含んでいます。

 また既に取り組んでいることや、人と話をすること、オフィスでの仕事や時には布団の中にまで持ち込んでの仕事など、沢山のことがあります。加えて妻のミカが必要とすることや、会衆の求めや、ミニストリーやその他の事など、次々と押し寄せてくる中で、私が今日のメッセージの準備を始めた時、最初に目をひきつけられたのはバルテマイの言った「私を憐れんでください」と言う言葉でした。

 私はこの「私を憐れんでください」という言葉から逃げられず、この言葉が頭から離れませんでした。私たちはいつも「愛と憐れみなる救い主」とか「憐れみ深い神さま」という言葉で「Mercy」という言葉を耳にしています。しかし、彼が言った「私を憐れんでください」という言葉にはいくらか違った力と理解があります。

そして、私たちがバルテマイの叫びを理解し始めるとき、神が与える憐れみとはどのような類のものかを私たちは見いだし始めるのです。

 さて、エリコはよく知られた貿易の街でした。沢山の人が物を売り買いするために行き来していました。もしも、あなたが働くことができなかったら、いわばあなたがバルテマイだったとしたら、あなたは他の人と共に外で物乞いをしなければならなかったでしょう。もう一日生き延びるために、誰かの目に止まろうと望むはずです。バルテマイは、イエス様の気を引くためにできる唯一のことは他の人よりも大きな声で叫ぶことだと考えました。だから、ここに「私を憐れんでください!ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」と叫んでいる彼の姿があるのです。

 そして、それがイエス様の耳に届いたわけです。ダビデの子、と誰かが言ったことを聞き取られたのです。これはダビデの血を引く救い主というメシアの預言を指しています。そして、このことは当時の世界では良く知られていて、町の外にいた盲目の人であってもでした。そして、イエス様はバルテマイの叫びを聞いた時、「私を憐れんでください」という言葉ではなく「私はメシアであるイエスあなたを信じます!どうか私を憐れんで下さい!」という言葉を聞かれたのです。

私はあなたの奇跡を信じます。私はあなたの教えを信じ、あなたが預言者が告げた唯一のお方だと信じます!私を憐れんでください!

 バルテマイには生きる目的も無く、この瞬間イエスが彼に与えるかもしれないもの以外は何も持ちませんでした。彼を待っているものも他に何もありませんでした。他のビジョンや希望や未来に関しても何もありませんでした。しかしバルテマイはもし彼が目が見えるようになるという夢を抱くことができるならば、そして将来の展望、希望、未来を持ち続けていられるとしたら、それは、自分の近くを通りすがった救い主を信じる事で起こることだと知り、悟ったのです。彼の絶望と失望は助けを求める叫びに変わりました。

 私たちは皆、希望を失ったり、目の前が真っ暗になったり、未来がないように感じる事があると思います。きっと、そういう時は、ストレスを感じる時、働きすぎたり燃え尽きてしまったり、憤ったり人と衝突したり、悲しみに打ちひしがれ、不安になったり落ち込む時ではないでしょうか。

 この聖書箇所は私たちにキリストを信じる信仰にしっかりとしがみつく事を思い起こさせるものだと思います。それは、こういったストレスや嘆き、絶望にくれるといった状態の中で何とか耐えるのではなく、これらの絶望の瞬間から自分たちを立ち上げるための言葉なのだと思うのです。

 私は先に牧師になるプロセスに必要な書類を準備している事を話しました。そして、そのうちの一つは私の宣教への召命について記述することでした。英語部・日語部それぞれの礼拝で私の宣教への召命について話をしたのですが、今日は、そこまでの道のりのある部分に焦点を当てたいのです。

 2007年の夏、私は初めてのサマーキャンプを共同企画しました。そして、それは私が UJCC(フレズノ合同教会)でキース先生と一緒にインターンをさせていただいた同じ夏でもありました。

そして、この時すでにキース先生と先生の行うミニストリーにくっついて大部分の夏を過ごしていましたが、私はいつのまにか、自分が 日系人サマーキャンプ(略してエイジアン・キャンプ)を手伝っているのに気づきました。

 最後の晩は大抵、感動的なキャンプファイヤーの夜となります。そこで私達ディレクターは、このミニストリーの一部を担ってどれだけ祝福されたか、神とキャンパーとスタッフに感謝するのです。

 そして、キャンプファイヤーが終わった時、私は一人で祈るためにその場を離れました。

私は、自分の人生がどうなるのかわからず、その事を神に祈りました。

私に何が待ち構えているのか、コンピュータのエンジニアにとどまるか、ロサンゼルスにとどまるか、家に帰るか、大学院の卒業をあきらめるか・・・沢山のことについて、私には明確な答えが出せませんでした。かなりの間、迷ったような感覚を覚え、葛藤を覚え、また何が私を待ち構えているか先が見えない、そんな風に感じていました。

 しかし、私が神に祈った唯一確かだった事がありました。それは、宣教への道を進み教会に仕えることをどのように感じているかでした。そして、これが私が大変長いあいだ感じていた最も完全な感覚だと理解しました。

そして私は神にこれから後の人生で私を用い、導き、私を憐れんでくださいと祈ったのです

 皆さんもおわかりの通り、バルテマイの話は、暗闇の中、何も見えない状態で神に助けを求め、そして神が私たちの言うことを聞いてくださっているという確固たる信念を持っているという信仰の話なのです。

 でも、この話には、また別の現実を表す他の側面もあります。イエス様は、バルテマイの隣にいた人、それが弟子の一人だったのか、そこに群がっていた人の一人なのか、バルテマイに静かにするように怒鳴った人達か定かではありませんが、誰かに言われたということに気付

かれると思います。イエス様は誰かに、バルテマイと話をするように頼んだのです。そして、私は自分の人生においても、このことが本当だということに気がついたのです。

 自分の伝道への召命を受けた初めの段階では、自分が何をしているのかハッキリとは分かりませんでしたが、何人ものリーダーや牧師、そして教会のメンバーから自分にはその賜物があると後押しする言葉を聞きました。教会員の家や病院に誰かを訪問する時には、毎回、自分の話すことや祈りが、その部屋におられる神によって息を吹き込まれるように祈ります。私たちのスティーブン・ミニストリーでは、ミニスターの一人一人が、助けを必要としている方々と神とを結ぶパイプ・管となることが必要であると教え、その為に神に使っていただくよう祈っています。

 お分かりですか?神が最初に私たちに手を差し伸べるように頼むのは、私たちが名前も知らないような人たちなのです。どういうことかと言うと、神は、あなたの周りにいる全ての人を通してあなたに話しかけられ、同様に、あなたを周りの全ての人に語りかけるように使われておられるに違いないということです。ただ、私たちの周りにいる人の言うことに耳を傾け、そして神が私たちに何を言っておられるのかを聞くのには時間と忍耐が必要なのです。

 それはバルテマイがとった行動です。彼はイエス様に呼ばれたと聞くと、飛び上がってイエス様のところへ行きました。するとイエス様は彼のために何が出来るかを尋ねたのです。バルテマイはただ目が見えるようになりたいと言いました。イエス様は、行きなさい、あなたの信仰があなたを癒したのだと言われました。これがバルテマイの話の終わりですが、そこで私たちは、神がこれからもそこへ在られて、私たちの信仰に明確さや方向性を与えてくださるという認識することができるのです。

 神は私たちを暗闇から引き上げて、私たちにより良い明日、より良い未来のための視界を与えて下さるのです。エリコの町の外にいる乞食のようにその日、その日をただ何とか生き延びていくのではなく、私たちに命を与えてくださるのです。私たちに希望を、生きる目的と理解を与えてくださるのです。それがバルテマイに起こったことであり、私に起こったことなのです。そして、私は、皆さんの多くがこのバルテマイの話に似たようなストーリーをお持ちのことと確信するのです。

 プレイズバンドに演奏をお願いする前に、私は「神は、あなたがいる所どこでも、またどこへ行こうとも共にいてくださる」という言葉を告げてメッセージを閉じたいと思います。

 暗闇しか見えないという状況にあるような人生の時に「ダビデの子、イエスよ、私の主、私の神」と呼びかけることは無意味だと思う人もあるかもしれません。「私の視力を元に戻してください、もう一度見えるように助けてください」とただ神さまに呼びかけることも難しい場合もあるかもしれません。

 でも、他の感覚を使って神の方向へあなたの意識を向けてみてください。また、あなたを神へと導くあなたの周りの人々にあなたの心を向けてください。

 神は存在するだけではなく、他者との繋がりを作るために私たちを用います。

それは「私たちの教会に来てください。」とか「一緒に祈ってもいいですか?」または「それをするのを手伝わせて。」とか「力になりますよ。」というような姿かもしれません。

 神はいつも私たちと一緒にいてくださいます。共にいてくださる偉大な方(インマヌエル)です。神は私たちの人生の最も暗い闇の時、いつも憐れんでくださいます。そして、神は他者を支える手を差し伸べるために私たちを用いられるでしょう。また、神は常に私たちが信仰を通して物事を見るように助け、ただ一日一日を耐える事よりも、私たちのより良い明日のために希望を与えてくださるのです。

栄光と平和が皆さんと共にありますように。 アーメン。