2015年9月27日「罪を知り、神の国を知る」

9月27日 主日礼拝説教要旨
「罪を知り、神の国を知る」山本一牧師
マルコによる福音書9章42−50節


●生まれつき手足のない乙武洋匡さんは自分の体について、よくユーモアを交えてお話をされます。それを聴くと乙武さんは自分の身体の限界を自分で良く受け止めておられるのだなぁという事を感じます。
聖書という書物もまた、自分はどれだけ頑張っても限界あり、どこか不満足で欠けがある存在だ、という事に気付くところに実は本当の幸せがあるんだ、と教えています。
●イエス様の12人の弟子達はある時、いったい誰が一番偉いかという議論を始めました。その弟子達に対して今日の箇所でイエス様は「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は・・・海に投げ込まれるほうがよい」と厳しい言葉を述べられました。
誰が偉いや、自分が一番正しいなどと言いあっているうちに、あなたたちは弱い人をさげすみ、軽んじてしまう。それは不幸な事なのだという警告なのです。そして43節以降、少し怖いような言葉が続きます。
「片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」同じように片足、また片目、と格言のような言葉が続いています。良く見ると最後の格言では「命に預かる」という言葉を、「神の国に入る」と言い換えています。つまりここで、イエス様は「神の国」と「地獄」について話しておられるのです。ただ、これは死後の世界としての天国や地獄と言う事を言っているのではないでしょう。私はこの箇所を読むときに一八世紀の禅の白隠和尚の話を思い起こします。

 

●ある日、一人の侍が白隠和尚を訪ね「地獄と極楽はどこにあるのかわからん」尋ねた。すると白隠は「見かけは立派な武士だが、その年でまだ地獄の有無がわからぬのか、この 腰抜け侍」と罵ったそうです。その言葉に怒った侍は、刀を抜いて白隠を追いかける。そしてついに本堂の隅で刀を振り下ろそうとしたその時、白隠は大声で叫んで、「そこが地獄だっ!」と言ったいうのです。この白隠のその一喝に、この侍は、怒りや憎しみ、自分を正しいとする思いあがりが自分も他人を傷つけ、ともに地獄に落ちるようなことに繋がる事に気づくと同時に、また地獄というのは遠い存在ではなく、現にいま自分自身の中にあることを思い知ったのです。
そして、この侍は髪や衣服の乱れを直し、恥じらいと喜びに面を赤らめ深々と頭を下げたのです。すると白隠は今度は穏やかに彼を指し「それ、そこが極楽よ。」と言いました。
この白隠の言葉に侍は明るさを取り戻すと同時に、極楽は、地獄とは反対方向にあるのではなく、地獄をつきぬけて、初めて観ることの出来る世界であることを知ったのです。

● 49節には「人は火で塩味をつけられる」という言葉もあります。火は神さまの裁きを意味し、塩とは、キリストを信じるクリスチャンの譬としてでてきます。私たち人間は、神さまと真剣に向かい合う時、実に欠けや罪の多い存在かを知らされます。それは「裁かれること」であり、辛いことですが、しかし、そこで私たちは初めて「このような私たちを愛し、救ってくださるイエスキリストに出会い、謙虚にされ、感謝と深い喜び、幸せを与えられるのだ」と聖書は注げているのです。神さまとの真剣な向かい合い、罪に震える地獄のような心持ちを通して私たちもイエス・キリストによる幸せ(神の国)に預かり、クリスチャンとなっていくのです。
使徒パウロは神を前にしたら皆不完全な存在だ。自分を良く見なさい、と語ります。誰が偉い、誰が上だ、下だというのではなく神の目から見たら欠け大き存在である事を覚え、支え合い、励ましあい、互いに平和に過ごすことができればと願います。