2015年10月4日「共感と愛のまなざし」

10月4日 主日礼拝説教要旨
「共感と愛のまなざし」山本一牧師
マルコによる福音書10章1−12節


●「痩せカエル、負けるな一茶ここにあり」や「我と来て遊べや親のない雀」という小林一茶の俳句は小さな存在への温かな眼差しを感じさせます。聖書を読むと、イエス様もまた、常に弱く小さな存在のへの温かな眼差しを持たれた方だったという事を知らされます。

●今日の聖書は一見するとイエス様が離婚を禁止されたという話になります。しかし本当に大切なメッセージはそこなのでしょうか?そうではないと思います。もう少し良く読んでみたいのです。
 熱心なユダヤ教徒、ファリサイ派のある人がイエスに尋ねました。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているか」。しかしこれは「イエスを試そうとした」質問でした。当時の宗教家たちは何度もイエス様を試すため難問を出しました。実に「離婚の問題」は当時大いに議論されていた問題だったのです。
旧約聖書(モーセの教え)の申命記24章1節に「人が妻をめとり・・・妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて・・・家を去らせる」という決まりがあり、当時この中の「恥ずべきこと」の内容をめぐって大論争がおこっていたのです。
ある一派はよほどの理由でなければ駄目だと言う一方、他の一派は拡大解釈をし「妻が料理を焦がした」など、実に取るに足らない理由、あるいは全く理由なしに離婚される事があったのだというのです。日本にも三行半の離別状で簡単に女性が離縁された時代がありました。世界中で女性たちが軽んぜられて来た(いまも)歴史があるのです。

●イエス様はここで「モーセのこの掟はあなたたち(男)が頑固なためだ」と言われました。つまり男性の心が固く無慈悲で、身勝手なため、せめて離縁状を書き、確かな理由がある時にしなさいと戒めたのだとイエス様は言われたのです。モーセも、イエス様の言葉も社会的に弱い女性の立場にたち、その女性たちへの憐れみの視点から語られたのです。 ですから今この箇所から離婚は何が何でもいけないというのは間違です。もしも、今イエス様がおられ、妻や夫の無慈悲、暴力、浪費など、様々真剣に離婚についての相談をしたなら、全く違った答えがあり、苦しむ者に深い同情を寄せられるに違いありません。
ある時イエス様は姦通を犯した女性でさえも聖書で裁く事はせず、深い憐れみをもって臨まれた、という話もあります。聖書で人を裁くような律法主義を超えた、イエス様の温かい眼差し、愛がそこに見えるのです。


●前回のホームレスミニストリーで一人の男性が自分の苦しい胸の内をお話くださいました。彼は自分がゲイで、教会でも公園でも「お前は罪人だ」と繰り返し言われ続けていると言われました。その無慈悲な言葉に本当に深い傷を負っておられるようでした。
私たちは彼に「今一番して欲しい事は何ですか?」と聞きました。すると即座に彼は「Compssion(共感)and Love(愛)」だと言われたのです。この言葉が胸を打ちました。


 そして、良く考えたら何も、彼だけじゃないと思ったのです。「Compssion(共感)and Love(愛)」、これは今の社会を生きる私たちが、本当に今、一番求めているものなのではないでしょうか。表面を見て「この人はこうだ」とレッテルを貼られる、裁かれ、排除される。そんな状況が身近にもないでしょうか?
「あなたが悪い」そんな言葉はもういい、「こうすればよい」そんなアドバイスが欲しいわけでもない。ましてや「聖書にこう書いてあるから」という律法主義の話しはもううんざり。

「今の自分を受け止め、話を聞いて欲しいんだ」とどこかで叫んでいないでしょうか?

●「弱さへの共感と、温かい眼差し」を私たちもまた求めているのです。なぜならそれこそが現代人と現代社会に最もかけているものだからです。
イエス様は今も、裁きではなく愛と共感の眼差しを持って、いつも私たちに臨んでくださっているのです。その眼差しを感じて歩んで参りましょう。