2015年10月11日 「救いはどこに?」

10月11日 主日礼拝説教要旨
「救いはどこに?」山本一牧師
マルコによる福音書10章17−27節


●昨今、日米問わず「健康」について皆高い関心を持っています。しかしそれは肉体的な健康であり、案外心や魂の健康については意識がされていないように思います。
八木誠一さんという神学者は「甘やかされた人間に本当に必要なことは、自分のことばかり考えずに他人の事を考え思い、他人の為に働くことなのだ。『人格の健康』は他者を愛し他者のために働くことで保たれるのである。」と言いました。
私自身、物が溢れ便利な時代に生まれ、自己中心的に育ちましたが、大震災の被災地でのボランティアを通して痛む人達に触れ、お仕えする事で心が変えられた思いをしました。人は他者への愛を抱く時、自分中心から解放され、幸せを得る。その事を今日の福音書もまた教えているように思います。


●ある時一人の男がイエス様に尋ねます「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。彼は「決して死なない命」について問うたわけではありません。聖書の「永遠の命」とは「救われた命」とも言えますが、つまりは神様に満たされた最高の幸せな人生です。彼はおそらくユダヤ教の家庭に生まれ育ち、家柄もよく、お金も持っていながら、何か満たされない思いを持ち、イエス様のもとに来たのでしょう。
その彼にイエス様はこのように答えられました。「神様の教えを守りなさい。殺すな、姦淫するな・・・」。ただ、この男性は、もうそんな事は幼いころから親に教えられて、守っていると答えました。そこで、イエス様は、21節その男性を見つめ、慈しんで、言われます。「あなたに欠けているものが一つある。
行ってもっているものを売り払い貧しい人々に施しなさい・・・それから、わたしに従いなさい」。ここでイエス様が仰った、たった一つ欠けていたものとな何でしょうか?

 ●それは「自分が永遠の命を得るために」とか「私の!自分の!」と願う自分中心な考えを捨てて人に仕え、人に捧げて生きる愛だったといえるでしょう。そして、イエス様は近くにある貧しい人たちに目を向けてみるようにと促されたのです。その時にあなたの内に本当の愛が与えられ、自分中心の思いから開放され、私に従う者「救われた者」とされていくだろう。そう告げておられるのです。
ただ、そんな事が本当に可能なのでしょうか。実際、この男性は自分には無理だと悲しみながら立ち去っています。イエスさまも「財産を持つ者が神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがましだ」と言われました。けれども同時にイエス様は「人にはできることではないが、神にはできる」とも言われたのです。
●先日ウェスレー教会のメンバーの一人が天に召されました。全身性強皮症という膠原病の一種で、7年も闘病ながらも、いつも笑顔で、周りの人を助け気遣っておられたお姿を思い起こします。
 教会にはこの様な姿が本当に沢山ある事を思います。教会は皆、健康な人が来るのではないのです。身体的にも、精神的にも、また人格的にも病み疲れた人が集っています。けれどもそのように「私の痛み、私の辛さ、弱さ、悲しみ」それを持ちつつも、他者に手を差し伸べ祈っていく、そういう姿と出会うのです。私はそのような人の姿を見るときに、それは本当に人間のできる事ではないと感じます。そして、そこに今も神さまの力、イエスキリストが生きている事を信じるのです。
 神様は、私たちに弱い者が集る教会をくださり、同時にイエスさまの愛を下さって、私たちを自己中心から解放し、永遠の命へと導いてくださっているのです。今週も周りの弱さに触れ、神様から愛を戴き、祈り支え合ってまいりましょう。