2015年 1月4日 「夢を見る人」 新年礼拝

1月4日 新年礼拝説教要旨
「夢を見る人」山本一牧師
ルカによる福音書2章13~23節


●私たちは時に人生の岐路に立たされますが、何をするにあたっても万人が賛同するような、納得するような道はありません。そのような中で自分が「これが神から私に示された道だ」と信じ歩めるかどうかが大切です。
私も牧師になるにあたり、沢山の「やめておけ」という声がありました。頼りないメンタルの弱い私を気遣ってくださったのでしょう。けれども葛藤しながら祈り、自分なりに神のみ旨を問い続けて、ここまで来れた事を感謝しています。今日は人生の岐路でどのように道を見出していくのか聖書より考えてみたいのです。


●聖書は度々「夢」で人間に神様のみ心が示されたと告げています。イエスの父ヨセフもその一人です。(マタイ1-2章で4回)。
1度目は、結婚前にマリアが身ごもった時(1:18~)「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」という声を受け、マリアとその子を受け止める決断をしました。それは自分の考え、ユダヤのしきたりを超えた決断でした。
2度目は残忍なヘロデ王がメシアの誕生に恐れを抱き、その子を抹殺しよう動き出した場面です。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ・・・」(13節)エジプトへ降るという事はエジプトの文明、富や魔術に毒される事とされていたので、恐らく周りのユダヤ人たちの非難の声、無理解のもあったでしょう。
そして3度目「起きて・・・イスラエルの地に行きなさい」(19節)。エジプトを出て故郷に戻りなさいというお告げを受けます。ただこの時はまだヘロデと同じく残忍なアルケラオという人物がユダヤ地方を支配していた事を知り行くのを恐れます。そうしてためらっているヨセフに再び夢でお告げが(4度目)ありアルケラオの統治の外であるガリラヤ地方 へ引きこもったということが告げられています。実にマタイは、終始ヨセフが「夢のお告げ」によって導かれたと告げているのです。


●ある人は「ヨセフは寝ていただけで楽やなぁ」と思うかもしれません。しかし、ヨセフは決してただの「夢見る人」ではない。若い妻と命を狙われている赤子を抱えて精一杯生きた「神の御心を探す人」だったのではないかと考えます。最も神様に喜ばれる道、愛する家族を守る道をその時々に自分なりに精一杯考え、決断し行動した人物だと捉えたいのです。その姿を良く現した父ヨセフの絵ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「聖ヨセフの夢」という絵です。

 

ここには、布団で寝ていたのではない、手には聖書を開き自分自身の置かれた状況に対して神様がどう語りかけて下さるのか悩み問い、そうしているうちに、椅子で眠り込んでいた姿が描かれているのです。「神の御心を探す人」ヨセフの姿を良く描き出しています。
「ただ聖書に書いてあるからこうすれば良い」という原理主義ではない、また、「現実がこうだからこうするしかない」という現実主義でもない。聖書の教えと現実の状況の狭間で苦悩し、自分自身が聖書の言葉と格闘し、座ったまま眠りこんでしまうほど祈るなかで、どこまでも「神様の御心を問うていく」そして何かを決断していく、その姿勢が大切だと言うことをこの絵は、ヨセフの姿は私達に教えているのです。そして聖書は、そのような精一杯のヨセフの歩みが祝福され、旧約聖書に預言されている事柄が成就していったのだと語ってるのです。


●また、この絵の天使の顔は、幼子イエスの面影を感じさせるといわれます。それは必死に神の御心を探して生きようとする私達の「精一杯の」考えをイエス様こそがいつもそばで理解し、ねぎらい、支えてくださる。その事を私たちに教えているようです。
この2015年、それぞれに異なる一人一人の歩みをイエスさまがすぐ近くで、理解し、支え、励ましてくださる事を覚えつつ、私たちも歩みを進めてまいりましょう。