2014年 12月28日 「幼子イエスに見る救い」

12月28日 主日礼拝説教要旨
「幼子イエスに見る救い」山本一牧師
ルカによる福音書2章22~35節


●一年の終わりに、静かに自らの歩みを振り返る時、良かった点、至らなかった点が思い浮かびます。私たちはその時にどのような神さまの姿が思い浮かべるのでしょうか。
宗教改革者マルティンルターは、幼い時、教会にあった一枚の絵、善と悪を厳しく裁く「審判者イエス」の絵を見て育ち「私は悪魔以上にキリストを恐れた」『ルター著作集』、ワイマール版47,276)と言いました。若い時のルターにとってキリストは自分を助けてくれる存在ではなく、罪人を裁く恐ろしい審判者だったというのです。ただ、ルターは後に愛と救いのイエスに出会い、そのイメージを変えられたのです。
今日一年の終わりに、思い起こしたいのは「審判者なるイエス」ではなく、もう少し違うイエス・キリストの姿です。


●今日の聖書は赤ちゃんであるイエスを連れた両親が神殿参りをしたというお話です。
「さてモーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに登っていった」(22節)とあります。これは当時のユダヤ人なら誰もが行うしきたりで、長男を神に捧げる(贖いの儀式)ため、そして、「出産した妊婦」(レビ記12章)のためでした。そのレビ記の規定の最後には妊婦が貧しく子羊が捧げられない場合は、山鳩か家鳩で良いとあります。羊に言及されていないのでイエスさまの家もそうだったのかもしれません。

●その神殿にシメオンという人物がいました。彼は自分たちの民族の救いを祈り、救い主を待ち望み、神殿に集っていたのです。(25節)そして、いざシメオンが遭遇したメシアはというと、立派な王家の青年ではなく、また特別な赤ちゃんではなく、貧しい家庭に生まれた普通の赤ちゃんだったのです。そして、彼は、このように賛美したのです。 「主よ今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかにさらせてくださいます。・・・これは万人のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」また、「この子は・・・反対を受けるしるしとして定められています。」
シメオンは「弱さをまとったイエス様」、また「反対を受ける」つまり迫害を受け、十字架で殺される運命にあるイエス様にこそ全ての人々の罪を赦し、贖う、神の限りない愛、救いの恵みを見たのです。
イエスキリストは剣と槍を持って裁くためにこの世に来られたのではない、貧しく、弱く見えるが柔和で、どこまでも「愛に満ちたお方」としてこの世に来られたのです。剣に象徴されるような、暴力的な力を持って裁く主ではなく、あどけない笑顔と愛らしい姿の赤ちゃんに象徴される「愛に満ちたイエス」をこの年の最後に思い起こしたいのです。

●「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(ヨハネの手紙Ⅰ4章18節)とあります。これは、イエスの愛には恐れがないという事を告げています。イエス様の誕生によって、神様は私たちにとってただただ「恐れの神」なのではなく、いつも私たちの失敗を赦し、私たち人間の弱さや欠点を知った上で受け入れて下さる「愛の神」であるという事がしめされたのです。


今日の言葉「主よ今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかにさらせて下さいます」というシメオンの賛歌は「ヌンク ディミティス」と呼ばれ、古くから人生の最後、あるいは一日、一年の最後を平安に閉じていくための歌として歌われてきました。私達の一年の罪は今日この日、「完全な愛」を持った主によって赦されたのだ。そのような思いで歌い続けられてきたのです。私達も、イエスキリストの「完全な愛」を思い起こしつつ、安らかにこの古い年を越し、新しい年を迎えましょう。