2015年 1月18日 「来て、見なさい」

1月18日 新年礼拝説教要旨
「来て、見よ」山本一牧師
ヨハネによる福音書1章43~51節


● あの阪神淡路大震災発生から20年がたちました。

当時、被災した友人は「食物も水もない状態を経験したら、街のブランド品等に何の魅力もなくなり、命があればそれで良いと思った」と言いました。私自身もあの被災地の悲惨な光景の中で、助け合う人々を実際に見、人の優しさに触れ、価値観が変えられ、福祉の道、また牧師の道へと導かれました。時に「被災地に来てほしい、来て見て出会ってほしい」と叫ばれるのは、被災地の方々のためだけではなく、実際にそこに行く時に、こり固まった人間の価値観や自己中心的な思いを発見し、またそれを揺さぶられる事があるからだと思います。「来て、見て」初めて気づくことがあるのです。
●今日の聖書にも「来て、見なさい」と呼びかけられたナタナエルという人が登場します。
フィリポがナタナエルに言いました。
「私たちはモーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」しかし、この言葉に対するナタナエルの反応は冷ややかで、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とそっけなく応えます。これは彼が不信仰だったという事ではなく、むしろ、彼は聖書を熟知し、聖書のどこを読んでも救い主がナザレなんて小さな町からでるとは書かれていないと知っていたのです。彼は他の人たちよりも熱く、聖書の預言するメシアを待ち望んでいた人物だったようです。この真面目で熱心な信仰を持ったナタナエルに対して、フィリポは議論をふっかける事はしません。ただひと言「来て、見なさい」というのです。その呼びかけにナタナエルは、重い腰を上げてイエスの元へ行きます。するとそこで完全に思いを変えられ、イエスこそが神の子であると気づいたというお話です。

 ●今日シェアしたい事の一つは、今も私たちはこのナタナエルのように「来て見なさい」と、神様から声をかけられているのではないかということです。被災地もそうですし、ホームレスの方々が集るパークもそうです。先日高校生がホームレス支援活動に実際に参加して、「野宿しておられる方々って案外優しいんだね」と言い、友人に「来てみたらいいよ」と声をかけました。今まで、ただ危ないと敬遠していたその場所に、人を誘う何かがあったのです。野宿をしている方々は往々にして一つしかない食べ物をシェアしたり、譲り合ったりします。本当に人間らしい心、イエス様の示した温かい心は普段私たちが「こんなところに良いものは無い」と決めこんで敬遠しているところにあったりするのです。

●またナタナエルはイエスさまから「私は、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」という言葉を受けました。「いちじくの木の下」は古くから祈りの場所でもあったと言われます。彼はそこで熱心に祈っていたと考えられます。その姿を知っているというイエスさまの言葉には、ナタナエルの全て、心の奥底にある深い祈りまでも私は知っているという意味が込められているといえるでしょう。ナタナエルは、実際に「来て、見る」ことによって自分の考えを打ち破られると共に、自分が知る前に自分の全てを知っておられた方の存在に気づいたのです。ここに今、私たちが教会に来る大きな意味というものがあるのです。

●私たちもまたイエス様のもとに、そして教会という場所に「来て見なさい」と招かれている存在です。教会に来る喜びは、私の全てを、苦しい胸の内も、深い祈りも、全てを知っていてくださるお方、主イエスさまがおられるという気づきにあるのです。
 私たちはそのお方を信じ、私たちの歩みを委ねて歩んでまいりましょう。そしてまた、この世のもっとも苦しみのある場所に主はおられ、「来て、見よ!」と招いておられる事を覚えて、そこへ出かけてまいりましょう。そこに私たちを新しくする主との出会いがあることを信じたいと思います。