2015年 1月11日 「低くされた神の子」

1月11日 新年礼拝説教要旨
「低くされた神の子」山本一牧師
マルコによる福音書1章1~11節


●良いリーダーシップとは何でしょうか。日本でもアメリカで綺麗な言葉をリーダーの口から聴くことはありますが、なかなか人の心を深く討つようなリーダーがいないと感じるのは、実際に「その手」で底辺の痛みを知り、担うような歩みが見られないかだと言われます。さて教会・牧師は?どうでしょう。
美輪明宏さんの「ヨイトマケの」歌という歌があります。これは美輪さんが幼少時に一緒に育った友人の亡き母を回顧する歌で、日雇い労働に励む母親の姿が、またそれをきっかけでいじめを受けた友人の悔しさなどが折り込まれているといいます。この歌の中にこのような歌詞がありました。

「あねさんかむりで 泥にまみれて ひにやけながら  汗をながして 男に混じって 網をひき 天にむかって
声をあげて 力の限りに うたってた かあちゃんの 働くとこをみた

 どんなきれいな唄よりも どんなきれいな声よりも
僕を励ましなぐさめた 母ちゃんの唄こそ世界一

 今も聞こえる ヨイトマケの唄 今も聞こえる あの子守唄
父ちゃんのためなら エンヤコラ 子どものためなら エンヤコラ」


家庭を支えるために自らドロドロになりながらドカタの仕事をする母の姿こそが私の誇りだ。私はその母の姿を見ながら、奮い立ち、勉強し、働き、今や一人前の人間になったという事を歌い上げた歌です。この歌を聴く時、人を造り上げ導くのは「綺麗な言葉」ではなく、その生き様であると知らされます。
さてキリスト教における主(リーダー)であるイエス・キリストはどうなのでしょう?

●マルコは「神の子のイエスキリストの宣教のはじめ」という言葉で福音書を書き始めますが、イエス様の最初の一歩は洗礼者ヨハネから悔い改 めの洗礼を受ける事だったと告げています。イエス様は神の子であるならば、悔い改めの洗礼を受ける必要はなかったでしょう。しかしあえて、それを受けられたのだとマルコは伝えているのです。ここに、イエス様のその生き様というものが表されています。

●この洗礼という言葉には罪を洗い流すというイメージがあります。しかし本当の洗礼が持つ意味は少し違うのです。この洗礼(バプテスマ)の元の意味は「水に沈める」という意味の言葉なのです。日本のカトリック神父の本田哲朗神父こう説明します。「最も低い川の水の底に全身を沈めて、おごり高ぶる人間が、神の前に謙る者とされる事、自分を最も低い位置に置きそこから全てを見直させる 「沈めの儀式」なのだ」と。実際、このヨルダン川は地球上で最も深くえぐれた谷底に位置するそうです。イエス様が最初にそこで洗礼を受けられたというメッセージは、イエス様がその生涯を通してどこまでもこの世で低い地位にある人たち「汚れた人、罪人だ」とよばわれる人と共に生きる覚悟をされたという事をあらわしているのです。
「キリストは、神の身分でありながら、・・・かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ)
泥をかぶって、寝る間もなく、人にののしられ、それでも弱いものと共に生き、人の罪をかぶって十字架に係りなくなった。このような指導者、救い主だからこそ人々は、心を動かされ、キリストを信じる者たちの集い、教会が生み出されて言ったのです。

●聖書の時代から今に至るまで、私たちは良い指導者にはなり得ません。だからこそイエス様というお方は「人間のためならえんやこら」と、自ら低くなってその生き様をもって私達の心に訴え、私達を変えて下さろうとしているのです。どんな綺麗な言葉よりも、ただひたすらにこの世で低く低く生きられた、神の子イエス様というお方を見つめて歩んでまりましょう。