2014年 12月21日「喜びへの一歩」クリスマス礼拝

12月21日 主日礼拝説教要旨
「喜びへの一歩」山本一牧師
マタイによる福音書2章1~12節


●信仰とは「喜び」だと言われます。けれども現実を見た時に不安・不満やいらだちの方が多い事に気がつきます。それは「自分」という存在が心に大きく場所を占めているからかもしれません。ある時、詩を書きました。

「自分教」

自分はもしかして、「キリスト教」ではなく、「自分教」ではないか。牧師をして、人に仕えるなんて言いながら、どこかで、自分が満たされたいと願っている。自分は人と比べてどうか、自分は大丈夫か、自分が傷ついた、自分、自分、自分の中で自分が大きい。自分が大きいと不満も大きい。そんな私はキリスト教ではなく自分教。そんな自分を丸ごとなげだして、一歩踏み出したい。神さま、自分教でないキリスト教へと私を押し出して下さい。


聖書は「自分」ではなく「イエス」をこそ主として生きるところに「深い喜び」があるんだと言う事をつげています。

●今日の聖書は伝統的に「3人の博士」と言われてきたお話ですが、実は3人とは書かれていません。ただ「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」とだけ記されています。当時の東方と言えば、大帝国があったメソポタミア=「異教の土地」というイメージがあります。その土地の、おそらく当時の世界最高の知識を持った学者らが幼子イエスを「拝みに来た」(2、10節)というのです。この「拝む」という言葉は自分を退け、へりくだって礼拝する姿を伝えています。そして聖書はそこに「この上もない喜びがあった」のだと告げているのです。
この学者たちと対照的なのはヘロデ王です。彼は「わたしも行って拝もう」と言いながら、実際はメシアの誕生の知らせを聞いて、不安を抱き、拝むどころかその地方に住む幼子を皆殺しにしたというのです。
かたや、これまで神をもしのぐと自負するような近代国家があった東方からの学者たちが、遠くから旅をし、へりくだりイエス様を崇め礼拝し、深い喜びにあずかったのに対して、本来ユダヤの国にあって神を信じるはず 
の王様が「自分を神とし、自分の身を案じるが故に、不満と不安に満ち、恐ろしい悪を働いた」というのです。また3節を見るとどうやらヘロデ王だけでなく「ユダヤの国エルサレムの人々も皆が同様だった」のです。
今日の聖書は私達が「キリストによる深い喜び」に出会えるかどうかは「自分を退け、自分を献げて主を崇める心があるかどうか」という一点にかかっているのだと告げているのです。

●現実問題、ヘロデのような自分中心の私たちはなかなか変わることができません。けれども、「教会」はこんな私たちを、本当に、自分中心から、イエス様を主とするものに変えいってくれる場所だということを深く感じます。
イエスを主としていくと言う事はつまり、私達が自分はさておき周りの「弱さをもった命」に寄り添って行くという事でもあります。私たちは、教会にくれば来るほど、自分中心ではおれなくなります。なぜならそこには、色んな弱さを持った人がいるからです。その他者の弱さに触れていくそこで、自分をさておき、人を愛し、人の事を祈らずにはおれなくさせられていくのです。これが教会の良さなのです。そして、そこに本当に尊い天からの喜びがあるのです。

●日本の東北で活動する佐藤初女さんの「よろこび」という詩があります。

もしも わたしがひとりの友の心の痛みを 癒せたら
もしも わたしがひとりの友の生きる苦痛を救えたら
ひとりの人の憂い迷いを心の安らぎに導けたら
弱った小鳥を そっと両手に捧げてその巣に
返した時のようにわたしの生きる喜びとなる。

私達、イエスを主とするその歩みの中で、大きな事でなくてもいい、他者への小さなわざを通して、そこに与えられる喜びを確かに受け取って参りましょう。洗礼は信仰のゴールではなく第一歩です。今日洗礼を受け、新しく私たちのメンバーとなる姉妹、また今本当の喜びを求めて教会に集っている全ての仲間と共にこのクリスマスから、真の喜びへの道を歩みだしたいと思います。