2014年 11月2日 「偉大な者とは」

11月2日 主日礼拝説教要旨
「偉大な者とは」山本一牧師
マタイによる福音書23章1節〜12節

●今日の福音書には「先生と呼ばれてはならない」とあります。アメリカでは、Reverend という(「尊敬・あがめるべき」の意)語をつける事もありますが、日常は名前で読ぶことのほうが多いようです。一方日本では、牧師に先生をつけて呼ぶのが一般的です。中には今日の聖書の言葉を受けて、日本でも「先生」ではなく、誰々さんと呼ぶようにしている教会もあります。しかし、今日の聖書は果たして、そのような呼び方を問題にしているのでしょうか?

●朝、ジャパンタウンの掃除をしていると、何人もの方が日本語で「先生!」と挨拶をしてくださいます。不思議な事にそれは教会員でも日本人でもない方なのです。

なぜなんだろうと考えました。そして、この土地には昔から貧しさや苦悩を抱えつつも皆の痛みや弱さに寄り添い、精神的な支えてとなってこられた日本人聖職者の方々があり、その「生き様」への敬意がその呼び方に込められているのだということに気づきました。

今日の福音書もまた、そのような神を信じ歩む者の「生き様」を問題としているのです。

●このマタイによる福音書にはファリサイ派や律法学者と呼ばれるユダヤ教の指導者たちへの批判が強く現れています。そのユダヤ教指導者の一番の問題点を指摘してるのは7節です。
「広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む」
この「先生」という言葉は原文で「ラビ」という言葉ですが、これは、ヘブライ語で「ラブ」(偉大なもの)に「イー」(私の)という言葉がついて、「私の偉大な方」という一般的な尊敬の念を込めた呼び方だった言葉です。それが、いつしかユダヤ教指導者の称号として使われ出すようになるのです。さらに、原文では「好き」ではなく、「愛している」という強い言葉で記されています。彼らは確かに神の律法、掟を守り、誰よりも倫理的な行いをしてい たのですが、彼らが本当に愛していたのは神でも隣人でもなく、「先生と呼ばれること」だと厳しく指摘されているのです。マタイは、私たちは、そうならないようにとの思いを込めて、このエピソードを福音書に記したのでしょう。
さらに今日の箇所で大切だと思うのは8節、10節の言葉です。
「師は一人・・・教師は一人キリストである。あとは皆兄弟なのだ」。この言葉は私たちは父なる神、そして、イエスキリストというお方を前にしては皆、罪を犯しやすく弱い存在だ。立派に見える指導者も牧師も信徒も神の前に等しい存在なんだということを告げているのです。

●それではキリスト教にイエス以外にリーダーや教師のような人物は存在しない、と聖書は言っているのか。そうではありません。11節には「あなたがたのうちで一番偉い人は仕える者になりなさい。誰でも高ぶる人は低くされ、へりくだるものは高められる」とあります。
この言葉が教師とは誰か。真のリーダーとは誰かを言い表していると思います。
それは逆説的ですが、神の前に誰よりも至らなさを感じ、「自分は先生と呼ばれる資格はとうていない」と感じ、神の前に悔いて跪く人のことだと言っているのです。
聖書的価値観においては、神の前にあって、自分は、罪深い、また未熟な弱い一人の人間にすぎないと心痛める者、そして、ただ一人の教師イエス・キリストの恵みによって生かされている存在なのだという「へりくだりの心」を抱くものが、聖書の価値観における本当の意味での「ラビ」(偉大なるもの)なのだと今日の箇所は語っているのです。

良い教師とは誰か?本当の偉大なものとはだれか?完全な人ではないのです、神と向き合い人と向き合い、愛と真実を「追い求める存在」なのです。完全でなくてもいい、「生かされ、愛されている」というキリストの恵みに感謝しつつ、応えつつ、神を愛し、人を愛する道を求めてまいりましょう。