2014年 11月23日 「感謝に満ちて」

11月23日 主日礼拝説教要旨
「感謝に満ちて」山本一牧師
ルカによる福音書17章11~19節


●便利で物が溢れた現代、心から「ありがとう」と言う事や、感謝する事が難しくなっていると感じます。どうすれば「全ての事に感謝して」(テサロニケ一:5.18)生きられるのでしょうか。

●1620年新大陸アメリカに来たイギリスのキリスト者たちピルグリム・ファーザーズは飢えと寒さで一冬に半数の人が亡くなるという状況の中、ネイティブアメリカンから農業を教わり、その初めての収穫の時に感謝の礼拝を捧げました(収穫感謝の由来)。彼らは過酷な状況の中で心からの感謝を神に捧げたのです。 今日の聖書にも神様に心からの感謝を捧げた人の話がでてきます。

●イエス様はある時「重い皮膚病」を患った人たちに出会いました。当時のユダヤ社会では彼らは「汚れた人」とされ、隔離されていました。ただ、ユダヤの神殿の祭司によってチェックを受け、皮膚病が治っているならば「清い」と宣言され、社会に復帰することが出来たようです。
彼らはイエス様に「私たちユダヤ人を救ってくれる先生!憐れんでください」と叫びました。ただこの中で一人だけ「先生」とは呼べない人がいました。それが異邦人であるサマリア人です。彼はユダヤ人から軽蔑される存在でした。どれだけイエス様が素晴らしい力を持っていても、ユダヤの王となれば自分は顧みられないだろう。そう思ったに違いありません。またイエスの「祭司達の所へ行って、体を見せなさい」という言葉にもユダヤ人でない彼は失望したに違いありません。しかし半信半疑でも後の9人について行ったところ、その道の途中でこのサマリア人を含む十人全てが癒されたのです。イエス様を信じる者は異邦人であれ、恵みと祝福を受けるのだという著者ルカのメッセージがここにあります。

 ●ただそこで話は終わっていません。癒された十人の内一人だけが、イエス様の所に帰ってきたというのです。彼が帰ってくる姿は印象的です「大声で神をほめたたえながら帰ってくると、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」。彼はサマリア人つまり、外国人だったと聖書は強調して記しています。他のユダヤ人たちが、癒されて感謝しなかったわけではないと思いますが、誰よりも、自分は無理かもしれない、私が神様に省みられるはずもないと思っていた異邦人こそが溢れる感謝を持って主にひれ伏したのだと聖書は告げているのです。「あなたの信仰があなたを救った」とありますが、十人全てが癒されたけれど、その中で特別な「救い」、主にある喜びや感謝に与ったのはサマリア人だけだったのです。


●ある人は「人間の感謝を妨げるものがある。それはプライドだ」と言いました(Pride kills thanks)。逆に言うと、人間の誇りというものを奪われたときに初めて人は神様にまた他人に対して深く感謝する事ができるというのです。

父親が昔、口癖のように「ああ、主よ、感謝します」とつぶやいていたのを思い起こします。それは「晴れやかに」ではなく、いつも物思いにふけるようにでした。
 私自身もまた、当時の父の年になり、「ああ主よ」とつぶやくようになりました。そして気づいたのはそんな時は、決まって自分の失敗を思い出したり、自分が本当にちっぽけな存在に思えると時なのです。けれども、そんな時に 同時に「こんな至らない、罪深い私を許して下さる主イエスキリストがおられるんやなぁ」と全てを神様に感謝する思いが与えられるのです
私たちは自分が持ち上げられる時、豊かにされる時にこそ感謝の気持ちは沸くものだと思ってしまいますが、自分が小さく思える時にも、いや、そんな時にこそ深い主にある感謝に満たされるのです。