2014年 11月9日「主が生きておられる」

11月9日 主日礼拝説教要旨
「神が生きておられるから」山本一牧師
テサロニケの信徒への手紙一4章1~12節


●アメリカに来る前に、飼っていた犬が亡くなりました。その時には大切な家族を失ったように涙が止まりませんでした。ただその悲しみの中で、「小さな鳥のその一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」というイエス様の言葉が心に響いてきました。そして「この小さな命も神のみ手にあるんだ」そう思い、家族で祈りを合わせました。
聖書はこの世には初めがあり終わりがあるのだと告げています。自分の命、愛する者の命、私たちはその「終わり」を見つめて生きなければならないのです。ではどのように「終わり」と向き合い生きればよいのでしょうか。
●パウロはテサロニケの教会への手紙の中で勧めます「わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」(11~12節)
これは一見、信仰とは関係ない日常生活についての勧めに見える言葉の背景には当時信じられていた「世の終わり」(終末思想)の思想が影響しているのです。
この手紙が書かれた紀元50年頃のキリスト者たちは「すぐに世の終わり、主の再臨が来る」という終末思想を強くもっていました。そうして、ある者たちは浮き足立ち、仕事をやめたり、騒ぎたてたりしていたようです。そのような事は、いつの時代にもあります。最近では2012年12月のマヤ文明の暦による世の終わりの噂、に人々が動転したり、1995年アメリカで起きた「ブランチ・デビディアン」の騒動(子どもを含む81人が死亡)。 ●この手紙を書いたパウロ自身も、世の終わりが近いという信仰を当時、強く持っていたようです。しかし彼は、仕事もせずに熱狂的に終末に備える、というのではなく、むしろ落ち着いた生活をし、自分の日常の仕事をする中で、終わりの日に備えることを勧めているのです。それは、よく知られたマルティン・ルターの言葉にも通じます。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日私はリンゴの木を植える」(ルター)
たとえいつ終わりが来ようとも、いつもどおり、神さまに喜ばれる愛の業に励んでいく、それだけだというのです。そのような落着き・平安はどこから来るのでしょうか。
●実はあのルターであってもいつも冷静沈着だった訳ではありませんでした。こんなエピソードがあります。ある日、宗教改革の困難と行き詰まりのただ中で,ふさぎ込んで、絶望的になっていたルターに、妻のカタリーナが真っ黒な喪服を着て現れ「今日は神さまがお亡くなりになりました」と言った。この妻の言葉に,ルターはハッとし,その深い悩みの中で再び「そうだ神さまは生きておられるんだ」という事を思い起こしたのだというのです。そして賛美歌267番「神は,わがやぐら」(詩編46編1節~)という歌が生まれたのです
●私達は人間ですから、大好きな犬が亡くなったら涙も出ますし、愛する人との別れも、自分の命の終わりもそれと真剣に向き合う時に、必ず悲しみや失望、不安や恐れを感じます。けれども、その弱さのただ中で、私たちは「それでも主は生きているから大丈夫」という信仰を神さまから戴くのです。ルターの言葉の後にも、今日のパウロの「落ち着いた生活をしなさい」という言葉の奥にも「主が生きておられるから」という言葉が隠されているということをご一緒に覚えたいのです。