2014年 9月21日 「足るを知る」近藤誠牧師

921日交換講壇礼拝説教

ガラテヤの信徒への手紙1610

「足るを知る」近藤誠牧師

 私は「宣教師」という肩書でパイン教会に派遣されています。キリスト教の歴史の中で、最初の宣教師とは誰でしょう。洗礼者ヨハネや聖霊を受けた弟子たちは、神さまから召命を受けてそれぞれの務めを果たしました。もう少しはっきり、イスラエルではない国で、ユダヤ人ではない人々に対して、キリストの救いを述べ伝えたのは使徒パウロです。イエスご自身は実際に世界中を旅されたわけではありませんが、マタイによる福音書の最後のところで、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とおっしゃいました。キリスト教は、このイエスの言葉に従う形で世界に広がっていったのです。

 パウロは異邦人たちに、ただイエスを信じることによって救われると教えました。すると、パウロの教えを異端だとしてユダヤ人たちが怒り、彼を町から追い出すという事件も起こるようになりました。ユダヤ教の人々にとっては、パウロが教えるような信仰の仕方では救われるために十分でないのです。律法に書かれている約束事、あるいは伝統的に付け加えられてきた取り決めをしっかりと守らなければ、救われないと言うのです。パウロたち指導者がガラテヤ教会から離れている隙に、そのようなユダヤ主義がキリスト教会の中に入り込んできます。あるいは、元々ユダヤ教だった人々が懐古主義的になり、ユダヤ教に戻ってしまうということも起こりやすかったでしょう。パウロはそれに対して、「あきれ果てている」、「呪われよ」という厳しくも切実な言葉を投げかけています。

 パウロが彼らに伝えようとした福音につながる部分として、今日はマルコによる福音書も併せてお読みいただきました。律法学者とやもめの献金の物語です。ガリラヤの人々が陥りそうになった誘惑は、まさに律法学者の姿です。長    い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶されたり、上席上座に座ることを望み、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。イエスの福音に立ち、従うということだけでは飽き足らない人間の姿が、ここには描かれているのです。

 逆に、貧しいやもめはどうでしょう。乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれた。このやもめは、神の恵みが自分に十分であることを知っているからこそ、全てをささげることができたのです。律法を守っていても人一倍厳しい裁きを受けることになる者と、律法を守ることができず、イエスの福音にしか頼るものがない者との違いが、はっきりと見えてきます。律法を守っても去って行くしかなかった金持ちの青年と、罪びとの私を憐れんでくださいと胸を打ちながら祈った徴税人を思い出します。

 説教題を「足るを知る」としました。老子の思想に、「知足者富(足るを知る者は富む)」という言葉があり、「吾唯足知(我、ただ足るを知る)」という言葉が仏教にもあるそうです。物欲的な意味で現状に満足しなさいというような道徳的規範であるだけでなく、今日与えられた御言葉からは、「神の愛が、神の救いが私に十分である」ということを知る、あるいは知らされているという意味で、「足るを知る」を心に留めたいと思うのです。

 1940年頃の日本人で、海外で女性宣教師として働いていた方の言葉を紹介します。「失って失って何も残らないのが伝道者の生涯である。地上にありて国籍を有しながら、地上の何処の国にも属さないのが宣教師である。最後まで疑いの目でみられ、淋しく、とりのこされて異邦の果てに死を待つのである。しかし、そこには死に対する勝利があるのである。献げた人たちの輝きを何ものにも奪われない平安があるのである」。私たちもまた、足るを知り、何ものにも奪われない平安があることを信じて、歩んでまいりたいと思います。