2014年 10月5日 「求め続ける」

10月5日主日礼拝説教要旨

「求め続ける」山本一牧師

マタイによる福音書20章29節〜34節

今日10月第一日曜日は「世界聖餐日」です。世界が戦争へと向かっていた1940年に提唱されてから、70年以上、世界中の教会がこの日、国境、人種の違いを超えてキリストの惠みにおいて一つである事を覚えつつ聖餐式を守り続けてきました。このように教会は昔から今に至るまで混乱と分裂の中、真の愛と平和、一致を求め、祈り続けてきているのです。

聖書には『求めなさい、そうすれば与えられる』という言葉がありますが、求め、祈り続ける事の大切さを思います。私自身日本から来て1年ですが、自分にできた事はというと「祈り続けてきた」事だけだと感じています。自分、教会員、社会などの様々な課題を覚えて常に祈ってきました。あらためて「苦しい状況の中で祈り求め続けていく事ができる」これが教会に集う者にとっての希望であり、生きる力だと今感じています。

今日の福音書はイエス様が二人の目の見えない人を癒されたというお話しです。 

エリコという街に二人の目の見えない人がいました。恐らく社会から阻害された彼らは物乞いをしていたと考えられます。彼らはイエス様が来るのを聞いて、叫びました「主よ、ダビデの子(救い主)よ、私たちを哀れんでください!」聖書にはイエス様に癒しを求める人物が度々でてまいりますが、彼がその他の誰とも違っていたのは、「しつこく」求めた所でした。回りに叱りつけられる位にです。そうして彼らはイエス様と出会い、癒されていくのです。

 印象的なのはイエス様が「何をしてほしいのか」と尋ねられる場面です。あえてその人の願いを確かめるようにも見えます。別の箇所でもイエス様が38年間もの長きにわたって病に臥している男性に向かってやはり、「良くなりたいか」と聞かれたとも記されています。聖書はイエス様は人の願いや意志というものを大切にされるお方だということを伝えています。

 それはとりもなおさず、今の私たちの切実なる願いに確かにイエス様が寄り添ってくださるという事です。無理だと思ってあきらめていたら、この二人の目の見えない人の人生は変わらなかったでしょう。精一杯、イエスに願い、叫び、それをしつこくらいに繰り返していった所に、イエスとの出会いがあり、奇跡があったのです。「願う事、求め続ける事」が貴いのです。そこに人をまた神を動かす力があるのです。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩があります。

雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている 一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず 野原の松の林の陰の小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束(たば)を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしは なりたい

 宮沢賢治は35歳、病弱の極みの中で床の中で、死に対する不安を抱えながら、その時の心情を綴ったそうです。「そういうものに私はなりたい」。これはただの詩ではなく、いわば、思い通りにならない宮沢賢治の祈りだったのです。そこにこの詩が与える感動があるのです。

私たちは多かれ少なかれ。より良く生きたい神さまに従って生きたいという願いを持っています。けれども同時になかなかそのように生きられないという惨めさをも持っています。失敗して、つまづいて、また同じ失敗をして、自分の本来の願いとはかけ離れた自分の現実を突きつけられる。それが私たち人間なのです。あのパウロも「自分の望まない悪ばかりを行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と嘆いています。そしてその惨めな自分を救うのは主イエス以外にないと言うのです。

この世の現実は厳しいかもしれないけれども、この教会で主にあってより良く生きたい、地域を、社会をよりよくしたいと願う者同士が励まし合い祈りあい、祈り求め続けていきたいのです。

私たちその切実な、願いをしつこいくらい、繰り返して求めていく祈りをイエス様がいつも受け止めて下さり、そこに働きかけて下さる事を信じたいと願います。