日語フェローシップ 2023-09-21

聖書の律法

       聖書には「律法」がよく登場しますが、ユダヤの世界での戒律としての律法と、新約の世界での主イエスが教えられた「キリストの律法」とでは、その意味するところが随分違います。
       まず旧約の律法ですが、ユダヤ教の伝統では、旧約聖書は「律法」、「預言」、「諸書」の三つに分けられ、律法は旧約聖書の最初の五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を指しています。その根本には、ユダヤの民と神との契約である「モーセの十戒」があることは良く知られていますが、その後430年の間に神から与えられたモーセの律法には613の規則があるとされ、この十戒は、その最初の十条であると位置づけられました。
       更に個々の律法には詳しい解説や教えが付け加えられ、その数は数千にもなるそうです。従って、律法を正確に守ることは、当時の律法学者と呼ばれた人々にしかできないことになりました。新約聖書でこの律法学者がしばしば悪役で登場するのは、彼らが自分たちは他の人々より優れた者であり、したがって神様により深く愛されている、と思っていたからでしょう。
       新約の時代にもこうした律法はユダヤの民の間で大切にされていました。安息日や過ぎ越しの祭り、また神殿への様々な捧げ物などはその例と言えます。ところが、福音書の至るところで主イエスは律法学者、特にファリサイ派と呼ばれる人々と論争しています。
       例えば、マルコ7:10では、モーセの十戒にある「あなたの父と母とを敬え」とあるのに、律法では「父や母に対して『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、 もはや両親に何もしないで済む」となっている事の矛盾を指摘します。また、ヨハネ8:3-11では姦通の罪に問われた女性を律法に従って石打ちの刑にするために集まった人々に対して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と告げ、結局誰も石を投げずに立ち去ってしまいます。
       実は主イエスは、律法そのものを否定されてはいません。マタイ23:2に「律法学者たちやファリサイ派の人々(中略)が言うことは、すべて行い、また守りなさい。」と言われています。でもその後にこう続けられます。「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」と。つまり、形だけ律法を守る事ではなく、神の御心を行う事を命じられているわけです。
       これが「キリストの律法」なのですが、これはマルコ12:28の律法学者との問答の中で、第一の掟として『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』、また第二の掟として『隣人を自分のように愛しなさい。』と記されている通りです。ウェスレー教会の標語である「愛神愛隣」は、この聖句から来ています。
       とは言え、このキリストの律法だって、何千とある旧約の律法を守る以上に難しい事ですよね。さて、どうしたものでしょう。実に困った事です。

以下、日語フェローシップからのお報せです。

  • 9月24日(日)は月次の日語礼拝を守ります。以前サンフランシスコのパイン教会で牧師を務められ、今は仙台北教会を牧されている近藤誠先生がメッセージを担当してくださいます。ゼ時ご参加ください。
  • またこの24日は、礼拝後のお茶を日語が担当します。当日の飛び入り参加でも構いませんので、サーブのお手伝いを宜しくお願い致します。
https://8x8.vc/wumc-nichigo/gihon-spring
  • 9月22日(金)はサフラン会です。この日はシカモア教会のグレイ愛子さんがグァテマラのタペストリーについてお話をしてくださいます。
  • 毎週金曜午後4時からギホンの泉と、毎週土曜日朝6時半から早天祈祷会を守っています。以下の8x8からご参加ください。